昔、くじらぐもにのりたかった

暮らしとインテリアと、時々雑談

咄嗟に手を伸ばした ただそれだけのこと

先日投稿した「わたしがブログを書く理由」のお題の記事の中で

「モヤモヤしたものにカタチを与えたい」と書きました。

今日は、久々に開けたモヤモヤの引き出しを整理したいと思って書いています。

 

***

 

昔住んでいた街にコンビニがあって、その敷地の片隅に

ホームレスの男の人がいたんです。

いつもじゃなくて、いたりいなかったり。

まだ若そうで、多分40前後かな。

夏のジリジリ照りつける太陽の下でも、微動だにせず

ぼーっと座っている。

ただそれだけなんだけど、何度か見かけるうちに

時折その人のことを考えるようになりました。

 

ある日、買い物を終えて自転車でコンビニの前を通ったら、またいる。

それで私、自転車を停めてコンビニでおにぎりとバナナとアンパンと

お茶を買いました。

小さい息子を連れてたし、直接渡すのも気が引けて

その人の荷物が載せてあるカートの上に

気づかれないようにそっと置いて帰りました。

 

そのことを、しばらく経ってから夫に話したら

偽善的だと言う。

そうなのかもしれない。

でも、私はちょっと違うと思ったんですよね。

 

たとえば 目の前に今にも転びそうな人がいる。

そしたら、何も考えずに咄嗟に手を伸ばして支えようとするでしょ?

これって、善でも偽善でもなくほとんど反射的行為です。

私がしたことは、これに近いのだと思う。

 

確かに、根本的にその人を助けられたわけじゃない。

たった一食、の話だし。

だけど、人間お腹が空いてたら ろくなこと考えないし

まともな判断も出来なくなるよなあと思うんです。

おにぎり食べて、お腹いっぱいになったら

もしかしたら、ちょっとだけでも前向きな考え方が

できるかもしれない。

少なくとも、「今日はいいことあったな」って

そう思えるかも。

そういうことで希望がつながらないかな。

つながってほしいな。

 

しばらくして、もう街で見かけなくなってしまったけど

どうしてるかなと、今でも時々思い出します。

 

 

私が嫌だと思うのは、この日本で飢えている子ども達がいること。

貧困とかネグレクトとか、そんなことで常にお腹が空いている。

そういう子はなかなか見えない。いるのに隠れてしまっている。

または隠されている。

でも確実にいるんですよね。

そのことを忘れないで、考え続ける。

そうしたらまた、誰かが転びそうになった時、ぱっと手を伸ばせる気がするんです。

善とか偽善とか考えずに、ほとんど反射的に。

逆に言ったら、人は自分も含め 誰でもいつでも転ぶことがあるんだと

想像できなければ 咄嗟に体は動かない。

あーっと言ってる間に、転んでしまうんだということ。

 

とりあえず、子ども食堂への支援はここ数年続けています。

今出来ることであって、全てではないけれど。

寄贈品は集まっても、運営費用が絶対的に足らない現状があります。

完全無料化するのも、難しかったり。

 

たった一食がつなぐ希望がある。

やっぱり、そう思いたいな。