昔、くじらぐもにのりたかった

暮らしとインテリアと、時々雑談

メイプル・ストリート物語

彼と出会ったのは新緑が眩しい季節、よく晴れた日の夕暮れだった。

彼のフレンチ・ブルドッグは クリーム色の毛並みがきれいでまだ小さかった。

短い足でよちよち歩いたかと思うと ふいに立ち止まる。

その気まぐれに辛抱強く付き合って 長身の彼が歩幅を小さくして歩く姿は 
彼のフレンチ・ブルドッグより 正直かわいくて

ずっと後ろから眺めていたかった。

 

しばらくして、私の靴音に気づいた彼が振り返った。

「あ、ごめんなさい。遅いのでお先にどうぞ」

 

夕焼けに染まる楓並木の歩道に、長い影と中くらいと小さな影が伸びていた。

足元にその小さな影が近づいてきた時

「撫でてもいいかしら?」と思わず言ってしまった。

そのまま追い越すことが どうしても出来なかった。

彼があまりにも あの人の面差しに似ていたからだ。

 

「もちろん」

彼は仔犬を抱き上げると

「カイっていいます」と言って 私の方へ近づけてくれた。

彼の顔をまじまじと見たい気持ちを抑えて、私は仔犬の頭を撫でていた。

「かわいい」

独り言のように呟くと

彼は、自分が言われたみたいに照れて笑った。

 

それからの私は 彼に会いたい気持ちをどうすることも出来ずにいた。

自分で自分の反応に戸惑いながら、その気持ちを締め出せなかった。

会えなくてもいい。

遠くから 見られるなら それで。

 

 

 

夕刻、楓の並木道に面したカフェ。

いちばん奥の窓際が、いつからか私の指定席になった。

季節が進み、紅に色づいた樹々を眺めながら彼を待つ。

 

目印は 楓とお揃いの色のマフラー。

カイは大きくなって、歩くのがとても上手になった。

 

彼がカフェの前を通り過ぎる ほんの数秒。

何かを取り戻したような

失ったものが再び戻らないことを確認するような

そんな時間が 今日も過ぎていった。

「恋とは違った…」

確信した言葉を 小さな声で空に放った。

 

 

「お待たせぇ、遅れてごめんね」

えっちゃんが息を切らして入ってきた。

腰掛けるなり

「はい、これ」

と小さなピンクのリボンのついた小箱を差し出す。

「ちょっと早いけど、来週お誕生日でしょ?」

キョトンとしている私に、えっちゃんが優しく微笑む。

そうだった。すっかり忘れていた。

「おめでとう。93歳だね、おばあちゃん」

 

 

 

あれからもう、78年が経ったのだ。

15歳だった私は、どこからどう見てもおばあちゃんだ。

それなのに、老いた体の中にはまだ、瑞々しい魂があることに驚く。

さよならも、ましてや好きだなんて言えないまま

列車に乗り込むあの人を 少し離れたところから見送った。

二度と会えないのはわかっていた。

 

「今日はね、おばあちゃんに会わせたい人がいるんだ」

そう言って、えっちゃんは窓の外に視線を向けた。

「ほら、あの人。赤いマフラーの」

 

夕暮れの楓並木の歩道に、4つの影が伸びている。

「はじめまして」

彼はまた、あの時のように照れながら笑った。

私は、彼の瞳に映るオレンジ色の空の中に

あの人を見つけた気がした。

  ーさよならー

 

かさかさと乾いた音をたてて、楓の葉が風に舞った。

私はまっすぐ彼を見て微笑んだ。

「はじめまして。えっちゃんをよろしくね」