私は肩書きというものをあまり気にしない。誰がどこの大学を出ているとか、どこに勤めてどういう役職とか、そういうのに無頓着で、一度聞いてもしばらくするとほとんど覚えていないことが多い。
車もどれが高級車なのかよく知らないので、車種を聞かされても相手が望むようなリアクションが出来なくて、後から気づいて申し訳なかったかなと思ったりする。
私のこういう諸々に影響を与えているのは、学生時代に少しかじった登山ではないかと思う。20キロくらいの荷物を担いで、1週間ほど縦走する。小屋には泊まらず、テント泊である。いろんな人と出会う。山にいる限り、下界の肩書きなど何の意味もない。(但し、緊急時の医療関係者は別ですが)
社長さんも平社員も、金持ちもそうでない人も、男も女も、年齢でさえも。銭湯で裸になったらみんなただの人、みたいな感覚に似ているかもしれない。
一方で、下界での価値基準が無意味な山の世界でさえも、山には山の別の価値基準が生まれる。たとえば、体力があるとかパッキングがうまいとか、細かいことを挙げればきりがない。生きている限り人は、身を置く環境のなかでどうしても「価値」を探してしまうものなのかもしれない。
私は「得体の知れないもの」「説明のつかないもの」「無駄なもの」に思いを馳せる。そういうものは、一般的には価値のないものになるんだろう。でも、どこからか湧き上がる思いや、おぼつかない感情の中から芸術は生まれた。
いや、なにも生み出さなくても、心から滲み出てくるものが、価値がなくて無駄なものが、たくさんある世界って素敵じゃないかと思う。
私のブログには無駄が詰まっている。説明がつかなくても、得体がしれなくても、書きたいことを書く。ときどき怖気づくけれど、ブログくらいはそういう場にしたい。
価値など求めないで、人と繋がりたい。
あ、こういうのって、翌日の朝に読み返してちょっと恥ずかしくなる系かな。だけど、これがいまの私の気持ち。