毎日の楽しみは、家事がひと段落した後のドリップコーヒーである。
お湯を注いで、数十秒蒸らす。
10秒くらいでムズムズしてくる。
何もせず、優雅に待っていることができない。
洗い終わって伏せておいた朝食の皿なんかに手を伸ばし、
拭き上げながら時間を潰す。
一方で、待ちぼうけを食っても、手持ちの本を読んだり
街を眺めたり、何かすることがあれば割と長く待っていられる
自分がいる。
「待つ」という行為に付加価値を見つけることができれば、
その時間が苦にならないという点で、どちらも同義的である。
でもある面から見れば私はせっかちで、違う面から見れば気が長い
ということになるだろう。
たとえば、冷蔵の食品が配達される日に
シャンプーの詰め替えをしている最中。
なかなか落ち終わらない容器をしぼりながら、
「いま宅配の人が来たらどうしよう」と心配になる。
手が離せなくてもたもたしているうちに、持ち帰ってしまったら…
冷蔵だから確実に受け取りたいのに…
そうなると、トイレに入るのもどきどきのデンジャラスタイムになる。
一方で、少し先の将来を不安に思うことはあまりない。
親の介護とか老後資金とか、不安材料はいろいろあれど
まだ起こってもないことを心配しても仕方なしと思っている。
こんな私は心配性だろうか。それとも呑気だろうか。
人の気質や性格は、思っているより複雑で多面的なのだと思う。
せっかちで気が長く、心配性で呑気。
そのどれもが矛盾なく自分なのである。
学校のスローガンに「明るく元気な子」なんて掲げてあると
私は子供ながらに面白くなかった。
「ときどき明るく、ときどき元気な子」
では、どうしていけないのだろう。
いつも明るく元気じゃなくても、いいじゃない。
そう思っていた。